ココのブログ

自分の道を歩む。

試み

10月の終わり頃から、Unityというゲームエンジンを使ってプログラミングでゲームを作るという事にチャレンジし始めた。

 

プログラミングは、正直な話、一度も触れたことが無く、約2カ月経過した今も訳が分かっていない。

でも、何だか楽しい。

 

今までゲームをやる側としての立場であったが、何かものを作りたいという気持ちがふつふつと湧き上がってきて、さて何を作ろうかという時に、小さい頃からずっとお世話になっているゲームを作ってみようかという気持ちになったのだった。

 

ちょっと前に中国語とか何か色んな新しい事に目をつけては、実践してみたけど、結局どれも続かなかった。

 実践する目的が自分の中で曖昧だった。

途中で何故こんな事してるんだ状態になってしまい、他の事に気を取られる。

それが繰り返し、続かない。

 

Unityでゲームを作る事は楽しい。

まだ、参考書を見ながらのサンプルゲームを作っているだけだが、楽しい。

毎週日曜は、カフェへ出向き、ゲームを作る時間を設けている。

いつか公開して、みんなに楽しんでもらえるようなものを作れたらいいなと思っている。

最近の若者は挨拶をしないんじゃなくてあなたが挨拶するに値しない人間だろっていう話

以前にも上下関係についての話を書いた事があり、被るところもあるかもしれないが、書きたいので書くことにした。

 

「最近の若者は挨拶をしない」という言葉を誰しも誰かしらから聞いた事があると思う。

私自身も社会人になって何回聞かされたことか。数え切れない。

でもそれって違うんじゃない?って思う。

人間、好意を持っている人になら自ら進んで声をかけに行くはずだよね。

同姓、異性に関わらず挨拶においてだってそれが適用されるはずと思っている。

挨拶をされない≠礼儀を知らない

とかじゃくて、

挨拶されない=挨拶されるに値しない人間という事。

挨拶されないと憤慨する前に、それ相応の態度を取ってますか?

威張り散らしたりしていませんか?

挨拶してもらえるのが当たり前と思っていませんか?

挨拶してもらえない人は、他人に原因を作るのではなくて自分の中に原因がある事を気付いて欲しい。

人の失敗には寛容になるべき

失敗は悪い事では無い。

人は誰しも失敗する。

失敗をして学び、もう同じ失敗を二度としまいとそれを血肉として成長していく。

しかしこの失敗に対して親の仇かの如く激しく怒鳴り散らす人がいる。

人の失敗に対して激怒するだけでは失敗した人は成長しない。

怒ることはむしろ逆効果で、相談がしにくくなったり、自信喪失に繋がってしまう恐れがある。

失敗の報告を受けたら、まず話を聞いてやる。

なぜ失敗をしてしまったか、どうすれば失敗を防げたのかを相手の気持ちに寄り添い、一緒に考えてやる。それから今後へと繋げていくというのが一番重要だと思う。

誰しも失敗したくて失敗している人はいないのだから。

 

 

 

人の幸せを祝えない奴は幸せになれない

会社での出来事だ。

とあるAという同期がいる。

このAは11月にめでたく結婚式を挙げるそうだ。

8月に結婚式に出席するか否かのハガキが同期である私の自宅へも届き、もちろん出席するということで返信した。

 

Aの地元は現在住んでいる場所から新幹線で3時間ほど。

少し距離があるため往復3万円程度かかってしまう。

ここでBの登場だ。

このBも私の同期で、歳は私より2歳ほど年上である。

彼が私に言った。

「お祝い金で3万円やろ?さらに新幹線代で3万円、ホテル代で1万、その他諸々で合計10万ぐらい飛んでいく。

こんなに一度にお金が無くなったらやばいから結婚式行くの止めるわ」

これを聞いた時、正直クッソショボい奴だなと思った。

年は私より2歳年上なのだが、人間としてショボ過ぎる。

実家暮らしのくせに、金が無くなったらやばいとか何言ってんだよこいつって。

しかも、結婚式に出席するってハガキで返信してるのに金が一気に無くなるからキャンセルするってほんとどうかしてると思う。

 

人の幸せを祝えない奴は絶対自分も幸せになれない。

これが私の信条だ。

人を心から祝福して自分が嫌な気分になる事は無い。

幸せは祝ってあげた分だけ、もしくはそれ以上絶対自分に返ってくる。

他人の幸せに嫉妬したり、または今回の様に金の支出をケチる様な奴は普段からその素ぶりを他人に見せている訳だからそんな奴が他人から祝ってもらえるはずもない。

もし祝ってもらったとしても、それは形ばかりのもので心から願っているものでは無いと思う。

 

人の幸せは何があっても絶対に祝ってあげたい。

ほんの少しだけでもいいからそう思ってもらえる様に、話だけでもしてみようとは思う。

 

 

 

日々何かしら成長していたい

このブログも振り返ってみると、はや9か月目に突入していました。

見て頂いている皆様、大変感謝しております。本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

 

ふと、このブログっていつから書きはじめたんだっけ?と思い、記事を遡ってみると最初の記事が、2017年1月で、いつの間にか結構な時間が経過していた。

当初は、辛い現実を変えたい。絶対脱出してやる。そのためには、今までとは違う何かをして自分自身を変えたい。という思いでこのブログを開始したが、今もその思いは変わらず。浅い考えしか持ち合わせてはいないが、これからも自分の思った事は意思として発信し続けていきたいと思う。

 

今は、毎日何かしら成長していたいという気持ちが非常に強いのだが、昔はそんな気持ちは毛頭持ち合わせていなかった。

平日は、仕事に疲れ夜遅く帰宅し、それと同時にベッドへダイブイン。気付けばいつの間にか電気を点けっぱなしで寝てしまい、深夜3時頃に電気が点いている事に気付き、起きて消して再び就寝。そして、満足に睡眠で疲れを取る事が出来ないまま次の出勤を迎え、またそれの繰り返し。毎日、土日のために生きていた。

しかし、その待ち望んだ土日で特に何をするわけでもなく、シモいサイトを狂ったように漁り、性欲をなだめる事を習慣としていた。その、性欲の嵐が過ぎ去った後に、何やっているんだ。。というとてつもない虚無感と後悔。

これではアカンとWii Uスマブラを購入。何か他の事に打ち込めば、右手の運動会も中止になるだろうとやりこみ始めるが、結局無駄に終わる。

大事な土日ですら何の成果を得ることも無く、ただ残酷に着実と時は過ぎ去っていった。

 

今考えるとクズみたいな生活をしていたなと思う。

 一人でふと温泉へ出向き風呂に浸かりながら考えた。

そして、『俺って学生時代から何一つ変わってない』という事に気付いてしまった。

歳と体だけ大きくなって、中身はスカスカで何にも成長していなかった自分にひどく失望した。

職はあったもののほぼニートと同様。ニートと比べる方が失礼に値するような生活をしていた私は変わらなければまずいという危機感に包まれた。

それからというものの、平日で仕事が遅くなってしまっても、毎日本は必ず読む。ニュースを見て世界情勢や知見のある方のブログ等に目を通す。日本語以外の語学を学習する。今までやった事が無い新たな事に挑戦し自分自身の経験とする。

という様な事を少しずつではあるが増やしていき毎日欠かさず継続してきた。

やはり、何かしらやる事があると毎日が大変充実する。

何も持っていない自分に毎日少しずつ充実感を足していく。 ボールへ空気を入れて膨らませていくように。

その充実感こそが、人を成長させるのではないかと思う。

 

 

『毎日毎日が同じ事の繰り返しで本当に楽しく無いんだよな~』という人がいると思うが、それは自分のせいだと思う。会社のせいでも、友達・家族のせいでも何でもない。

自分で何か行動を起こさなければ一生そのまま。ただひたすらに時間を浪費するだけ。

過去は変えられないが未来は今の自分次第でいくらでも変えられる。

過去の自分を内省することで、これまでの自分のレベルに気付く事が出来、変わるきっかけにすることが出来る。

 昨日の自分より明日の成長した自分に出会いたい。

この思いを忘れずに日々少しずつだが精進していきたいと思う。

仕事の辞め時

私事なのだが、数か月間長時間残業が続いてる事で結構身体的にも精神的にも厳しい状態になってきた。

一体私は何の為に仕事をやっているのか、という事を最近頻繁に考える。

生活していく為というのはもちろんあるし、家族を養っていかなければならないというのも働く意味の中に含まれてはいるのは、他の誰よりも自分が一番分かっているつもりだ。

でも、何かが違う。頭では、働く理由を自分で言い聞かせてそうしなければならないように自分自身をまとめあげているような気がする。

でも、それを心が抵抗している気もする。

両者が一致していなければ、それは今後ずっと続けたい仕事ではない。

では、その仕事をすぐ離れればいいではないか、という話になってくるが、それはまた違ってくる。

それでは、ただ嫌な事があったからといって逃げているだけである。

その嫌な事を克服するため一体何をやったのか。

退職という道を選択する前に、辞めても後悔しないぐらい本気でその仕事に打ち込んできたのか、自分自身に問いかける事が必要だ。

その努力を怠っておいて退職してもまた転職先、もしくは新たなビジネスの場で同じ事を繰り返すだけである。

仕事の辞め時というのは、自分が努力して努力し尽して、仕事が楽しく回りだした。もしくは、努力してもどうにもならなかった。

それが訪れた時が、そこを離れるGOサインなのではないかと思う。

ただし、例外として極度のパワハラや肉体的精神的問わない暴力を受けている時は、即座に行動に出てもいいと思う。それを我慢してまで、働く意味はどこにも無い。

とりあえず、目の前の事に集中して頑張ってみることにする。

 

 

自己啓発本って

要らなくね?

私は、今まで自分を変えたい一心で書店に出向いては自己啓発本を漁りに漁り返して漁り上げてきたが、とうとうやっと時間の無駄だった事に気付いた。

かなり遅いし、遅すぎる。

自己啓発本を読んでいる人に対してのディスりとかそういうものは微塵も持っていない。

ただ、私自身の頭がそう感じているだけなので誤解なさらないようにお願いしたいという事は強く断っておきたい。

何故、自己啓発本を控えたかと言うと、変わりたいと思って本を読んでいる時間が勿体無いと思ったから。

変わりたいと思ったならそうするために自分に働きかけてその時点で変わればいいじゃん。わざわざ本読まなくても良くないかと感じたのである。

自分を変えたいという思いは必ずしも誰もが持ち合わせていると思っているし、それは誰もバカには出来ない非常に大事な事だという事は理解している。

変わりたいけど変われないから読んでいるんだという意見もあると思うが、それもそうだと思う。

でも、それでその本を読んで変わった人いる?

居るには居るだろうが、大抵がああいい本だったな〜本トジトジで終わりだと思う。

本気で変わりたい人は、わざわざ一回本を挟まずに変わるために何かしらの何かを実践するし、何度も挑戦して自分の血肉として活かしていくじゃないだろうか。

とにかく、何でも経験あるのみ。

失敗しても次に活かして成功体験を少しずつ積み上げていくことが、自分を変えるためにより大事な事だと思う。